2017年8月18日金曜日

意味論入門一歩手前: レッスン #4

意味論の基本的な考え方をごく簡略に解説するうえでは,今回の内容は完全に脇道です.しかし,世間に出回る哲学めいた議論のなかには,ごく基本的な区別すらおろそかにして読者を混乱させるばかりか,書いている当人すら首尾一貫しない考えに陥っている事例があります.そうした事例を他山の石としていくらか学ぼうというのが今回の趣旨です.

4.1 問題の答えあわせ


前回の末尾で,こんな応用問題を出しておきました:

答えは「ちがう」です.では,どのようにちがうのか,2つの観点で解説していきましょう.

4.1.1 文と発話の区別


文であれ,語句であれ,それを特定の場面で発することを【発話】(utterances) と呼びます.同じ言語表現も,さまざまな場面・文脈の発話でさまざまな意味を伝達できます.この点は,前々回から前回にかけて「何人かは殺してますよ」を具体例に観察しておきました.

もっと単純でわかりやすい例で言えば,「私が正しい,あなたが間違っている」という同じ文を,太郎と花子がお互いに言い合ったとしましょう(この例はバーワイズ & ペリー (1992) から改変して借用しました):

  • 太郎:「私が正しい,あなたが間違っている!」
  • 花子:「私が正しい,あなたが間違っている!」

すると,太郎の発話は「太郎が正しい,花子が間違っている」という内容を伝える一方で,花子の発話は「花子が正しい,太郎が間違っている」という内容を伝えることになります.両者の言い分はあきらかに矛盾していて,どちらかが真なら他方はかならず偽になります.しかし,だからといって「私が正しい,あなたが間違っている」という文そのものの意味がそれぞれの発話で異なっているわけではありません.「私」はその発話の話し手を指し示し,「あなた」はその発話の聞き手・対話者を指し示すという心的辞書レベルの意味が,それぞれの発話で異なった発話意味に貢献しているだけです.まして,「私」が太郎を指したり花子を指したりすることで「私」の意味が「綻び」ることなどありません.

森山「パフォーマティブ」解説での大きな難点であり混乱のもととなっているのは,文とその発話というレベルのちがいを考慮していない点です.個々人の心的辞書にある単語の意味は,個別の使用事例でいちいち変わったりしません.たとえば,「殺す」を「誰かをみずからの手で死に至らしめる」というふつうの意味で使おうと,比喩的に「アニメで誰かが死亡するシーンを作画する」といった意味で使おうと,その都度ころころ心的辞書の意味が変わるわけではありません(「そうは言っても,長らく使っているうちに心的辞書の意味だって変わってくることはあるのでは?」――そのとおりです.でも,その話は別の機会に).他方,森山の解説では,同じ表現をさまざまな文脈でさまざまな意味で使うことがその「辞書的な意味」を「綻び」させると言っています.「綻び」がどんなことなのかは判然としませんが,少なくとも「辞書的な意味」になんらかの変化をもたらすことを言わんとしているのは間違いないでしょう.

実際には,「殺す」をとても珍しい意味や比喩的な意味で使ったからといって,短期的に心的辞書の意味が「綻び」や変化をみせたりはしません.それどころか,一定の心的辞書の意味が言語使用の仕組みと組み合わさることで,発話レベルで突飛な意味も含めてさまざまな意味を伝達することがが可能になっているのです.

4.1.2 心的辞書と「辞書」のちがい


心的辞書は,ひとりひとりの個人が備えている記憶の一種です.他方,いわゆる辞書は,『広辞苑』にせよ『大辞林』にせよ『オックスフォード英語辞典』にせよ『コウビルド英語辞典』にせよ,人々の言語使用を踏まえて編纂される人工物です.森山「パフォーマティヴ」解説が次のように言うときには,こうした人工物としての辞書に近いものを考えているようです:
バトラーは,言語のコンスタティヴな意味とされるものは,絶えずそれを生みつつ反復される,すなわちパフォーマティヴに産出される言語使用の最大公約数的特徴にすぎない,と考えます.しかし,この「意味」はあたかも実際の言語使用の前から存在している,すなわち辞書に先に書かれてあったかのように見えるのです.(太字強調は引用者によるもの)
たしかに日本語の辞書であれば,日本語を話す人々がどのような意味でいろんな単語を使っているのか,その実態にもとづいて「最大公約数的」な意味を記述しようとしています.たとえば「殺す」であれば,三省堂『大辞林』は7つの語義にわけて一般的な意味を記述していますね.そうした記述を眺めていると,「おお,たしかに『スピードを殺す』みたいな使い方もしているよなぁ」と再発見して楽しくなります.実際にその語義で使っているという点では「知って」いても,その語義をとくに意識してはいないので,発見があります.

こうした辞書の語義記述は,心的辞書とは別物です.「私が正しい,あなたが間違っている」と発話するときにも,「何人かは殺してますよ」と発話するときにも,そこではたらいているのは心的辞書の意味であって,わざわざ『大辞林』をめくりながら発話する人なんてふつうはいません.

森山「パフォーマティヴ」解説では,言語使用に先だって「辞書的な意味」が存在しているのは錯覚だ(「あたかも(…)かのように見える」)と言っているようですが,これは,「辞書的な意味」がなんなのかをよく詰めていないことから来る混乱です.

通常の場合,いろんな単語の意味知識は発話する前から話し手の頭のなかにあります.その点で,心的辞書の意味が言語使用に先立って存在しています.

他方,辞書の語義記述は実際の言語使用を踏まえてつくられるのですから,「辞書的な意味」は言語使用のあとに存在しています.あたりまえです.辞書になんらかの語義記述が登場してからようやくその単語がその語義で使われはじめる場合は,ありえなくはないにせよ,例外的な事例です.

こう区別してしまえば,なにも不思議なことなどありません.「言語のコンスタティヴな意味」と森山の解説が呼ぶものに近いものを探すとすれば,それは個々人の頭のなかにあっていわゆる辞書にはないのです.

心的辞書も,人工物の辞書も,どちらも変化します.たとえば「アニメの作中人物の死亡シーンを作画する」という意味で「殺す」が使われるケースがじゅうぶんに広まれば,やがて日本語の辞書編纂者がその語義を辞書に盛り込むようになるでしょう.同時に,そのくらい大きく使い方が変わっている状況では,人々の心的辞書にある「殺す」の意味もいくぶん変化しているかもしれません.たとえば,そういう意味での用法がもはや比喩のようには感じられなくなっているかもしれません.

4.2 「意味が変わる」:3通りに区別する


ここまでの話を踏まえると,「意味」の変化について少なくとも3通りの区別ができます.

4.2.1 個人の心的辞書の意味が変わる


ひとつは,個々人の心的辞書の変化です.その劇的な事例は,言語を覚えつつある幼児たちの語彙学習でしょう.「いぬ」という単語を犬にも猫にも用いていた子が,やがて犬にだけ用いるように変化するとき,そこには心的辞書の変化があると考えられます.余談ながら,子供の語彙習得がいつもそういう「誤用」からはじまるとは考えない方がよさそうです:
子どもは,新しい語を一度耳にすると次からは自分でもそれを正しく〔=周囲の大人たちと同じように〕使っていくことも少なくない.(…)また,そもそも語の使い方の誤りは 5% にすぎないともいう.(今井・針生 2014: 49)

大人も新語を覚えていきますし(e.g.「ギガが減る」の「ギガ」),知っていた単語の意味が変わることもあります:たとえば〈すべて,全部〉という意味で「すべからく」と使っていた人が,これを誤用と聞かされて〈当然に〉くらいの意味で使うように変わっていったなら,その人の心的辞書にも変化が起きていることでしょう.

4.2.2 使用事例に見られる意味の変化


第二に,個々人の心的辞書の変化に対応して,人々が日々どのような意味でしかじかの言葉を使っているかも変化します.たとえば,危険が迫っているという意味での「やばい」に加えて,食べ物がおいしかったときなどによい意味で「やばい」とも言う用法が広がったのはそうした変化です.個々人の心的辞書の変化と,社会での実際の言語使用の変化は,お互いに影響していると考えてよいでしょう.

4.2.3 辞書などによる意味記述や規範意識の変化


第三に,個々人の心的辞書の変化や使用事例の意味変化を踏まえて,辞書の記述もあとから変化していくでしょうし(e.g.「やばい」),社会の変化を受けて言葉の使い方に関する規範意識も変わっていくでしょう.規範意識の一例としては,女性に限定した呼び方の「看護婦」を避けて「看護師」を使うべきという考えが挙げられます.辞書の記述も,規範意識も,言語や意味そのものではなくて,言語や意味についての記述または意識です.

辞書のような言語についての記述も,規範意識のような言語についての考え方も,人々の言語使用ひいては心的辞書に影響を及ぼすかもしれません.

どんな言葉をどのように使うべきかという話,規範や価値の話は,記述を旨とする言語学の埒外にあります(「どんな言語もひとしい価値がある/平等である」も価値判断です).とはいえ,たとえば「しかじかの言葉に侮蔑的な要素があるかどうか」という記述的な情報なら提供できます.そうした情報は,どのように言葉を使うべきかを考えたい人たちに役立つでしょう.

4.3 意味・用法を「変えたい」のであれば


森山「パフォーマティヴ」解説では,「安定した辞書的な意味」が「綻び」をみせることに大きな意義を見出しているようです.もしも,そうした変化を望むのであれば,実際にのぞましい使い方をみずからやってみるなり,「このように使うべき」という公の議論で規範意識にはたらきかけるなりを試みる手はあります.どちらも地味な手段ですし,どのていど成功するかといえばなんとも心許ないところです.これらを組織的にやれば,ちょっとは影響が現れるかもしれません――それを世間では「啓発」と言ったり「プロパガンダ」と言ったりします.

スティーブン・ピンカーが Sense of Style でやっていることも,言語についての知識にはたらきかけることです.たとえば,一律に受動文を避けて能動文を用いるべしという文章読本の指南に対して,受動文がどのようなはたらきをするのか解説してもっと事実にねざした助言を提供しています.

ひとつ確かなのは,きわめて突飛で通例からはずれた言語使用(「パフォーマティヴな」言語使用?)をちょっとやってみた程度では,人々の心的辞書や使用事例の動向に影響を与えることもほとんどないだろうし,それどころか,その突飛な言語使用も心的辞書を含む言語能力に依存してなされるのであって,それを「綻び」させることはないだろうという点です.

「しょぼい結論だなぁ…」――ごもっともです.「パフォーマティヴな」言語使用とやらがなにかすごいことや革新的なことをなしとげるように思っていたとすれば,ここでの話はそれに水を差したことでしょう.ですが,できそうもない話を信じ続けるよりはマシだと思いますよ.


参照文献


  • 今井むつみ & 針生悦子 (2014). 言葉をおぼえるしくみ.ちくま学芸文庫.
  • バーワイズ,J. & ペリー,J. (1992). 状況と態度.産業図書.

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