2017年3月8日水曜日

かざりだけの言語相対論

『シノドス』に,「現代思想・政治思想史」研究者の重田園江という人のインタビューが掲載されている.
記事のタイトルにもあるように,インタビューのなかで,次のような発言がでてくる
人間の思考は言葉でできていますよね。そのため、言葉遣いが変わると思考も変わるわけです。
語彙(ボキャブラリー)が変わると人間の思考が変わるというと,いかにも言語によって思考が変わる/影響されるという言語相対論あるいはサピア=ウォーフ説の一種のように聞こえる.おそらく,重田氏じしんもそのつもりで発言しているのだろう.

少なくともぼくにとって,2017年の時点で,重田氏がこうしてなんら限定もつけずに(そして関連研究をとりたてて考慮することもなく)気楽に言語相対論を言えることに,いくらかの驚きを感じる.

でも,ここで言語相対論の正否を論じるにはおよばない.おそらく重田氏が言わんとしている眼目にとって,こうした言語相対論はべつに必要ではないからだ.さきほどの引用に続いて,こう彼女は言っている:
その言葉使いがどう変化したのかを調べることで、人間の思考の変化を分析するというのが、今の思想史の研究です。
言語によって思考が変わるという影響があってもなくても,言葉づかいの変化を追いかけることで「人間の思考の変化」はいくらかわかる.雨がなかなか降らないときに「雨乞い」を語る時代と「梅雨前線」を語る時代は,きっと雨と不作に関する考え方がちがうだろう.重田氏がインタビューで言及している犯罪者の取り扱いに関する考え方の変化や,「経済のボキャブラリーがあらゆるところに浸透している」という所見についても同様だ.こうした考えの違いや変化が言語のちがいや変化に起因していなくても,言葉や絵画などのかたちで残る資料から,おおよその考え方はうかがいしれるだろう.どういう切り口で,どういう世界観で物事について語っているか,その資料の検討をつうじて,さまざまな時代・文化の人々の考え方はうかがいしれるだろう.ごく当たり前のことだ.言語相対論の正否は,こうした論点にはなんら関係がない.

必要ではないはずの言語相対論がなぜか彼女の方法論にとって重要であるかのように言及されていることこそがなによりもおかしいのだと,ぼくは思う.

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