2016年5月13日金曜日

「ジェンダーと科学の科学:ピンカーとスペルクの対論」(01)


スティーブン・ピンカーとエリザベス・スペルクが2005年に行った公開対論をちまちま訳してみようと思う.最近はこういう用途に google drive を利用していたけれど,昔ながらのブログでやってみる.

原文はこちら:

対論では,ピンカーとスペルクがそれぞれ40分ずつの主張を行い,そのあとに討議している.10年以上前の議論で,現時点でどれくらいの意義があるのか,しろうとのぼくにはよくわからない.そのへんも誰かが教えてくれたらいいなとあわく期待してる.

以下,訳文:


ピンカー:リズ,今回の議論に同意してくれてありがとう.エリザベス・スペルクと対論する機会をもらえて光栄です.お互いに,長いつきあいになります.長らく MIT とハーバードでの同僚で,まず MIT 時代にはぼくが彼女を招くはたらきかけをしましたし,ハーバードでは彼女の方がぼくを招くはたらきかけをしてくれました.ぼくの専門外の分野で,認知の起源に関する理解を深めるのにエリザベスがなしとげてきた傑出した貢献に,多大な敬意を抱いています.ただ,近年のとある論点に関して,ぼくらはちがう物の見方をしているのも事実です.

さて,火星からやってきたばかりの事情を知らないみなさんのために言いますと,とあるデータについて,ここハーバードではかなりの議論がつづいています.それは,物理科学・数学・工学の分野において,エリート大学のテニュアトラックに女性が十分に登用されていないという問題です.近年の数字を見てみましょう:

心理学では多くの論点がそうであるように,この現象を説明するには大きく分けて3つの方法があります.ひとつは,〔「生まれと育ち」でいう」〕極端な「生まれ」説が考えられます:つまり,科学に必要な才能が男性にはあって女性にはない,という説がありえます.言うまでもなく,こんな説をとれるのはどうかしてる人だけでしょう.極端な生まれ説を本気で唱える人はいません.
また,極端な「育ち」説もあります:つまり,男性も女性も生物学的には区別がつかず,関連する性差は社会化とバイアスの産物だとこの説は考えます.

さらに,両者の中間にあたる立場にはさまざまなものがあります:平均的な性質と才能の生物学的なちがいが社会化とバイアスと相互作用するというなんらかの組み合わせによって,〔男女の〕ちがいは説明できるというのがこれらの立場です.
リズは,極端な育ち説をとっています.これには皮肉なところがあります.というのも,認知科学における大半の議論で,心を説明するときには,彼女とぼくは同じ陣営つまり「生得論者」に括られているからです.ですが,今回の件では,生物学的な要因を支持する「ひとかけらの証拠もない」とリズはずっと言っています.彼女によれば,「男性にもともと有利な適性が備わっていることを否定する証拠は実に圧倒的で,現時点で,反対の立場をいったいどうすれば主張できるのか、私には理解しがたい」し,「科学におけるどんな発見にも劣らず決定的なように,私には思える」と言います.

なるほどお互い自信たっぷりなところは同じでステレオタイプめいた男女の性差はなさそうですね.さて,ぼくは論争屋であります.長年にわたって,あれこれと論争を呼ぶ立場をとってきました.ホモサピエンスの一員として申し上げましょう,そうした立場すべてで自分は正しかったと思っています.ただ,そうした論争のどれであっても,自分と反対の立場に「ひとかけらの証拠もない」とは言いません.自分がよいと思っている立場ほど相手の主張はすぐれていないと思っていてもです.また,ある立場が「科学におけるどんな発見にも劣らず決定的」という一節について言いますと――まあ,いま論じているのは社会科学なんですけどね.この言明からは,性差に関する極端な育ち説の方が,たとえば「太陽は太陽系の中心をしめている」とか熱力学の法則とか進化論とかプレートテクトニクスとかを支持する証拠よりもよほど強いという含意がでてきてしまいます.


――今回はここまで.

つづきます

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