2018年4月20日金曜日

バトラーせんせいのダジャレ論法の一例

ジュディス・バトラーせんせいの 1988年の論文の冒頭は,専門外のぼくにとって,この人の手法を垣間見ることのできる一節となっている:その手法とは,ダジャレだ.面白くもなんともないし,実は中身のとぼしい話でしかないものを,なにやら深い話をしているように思わせるのに言葉の多義によるダジャレを使っている.

「パフォーマンス」と「パフォーマティヴ」――どこでくっついたのやら

文学理論のガイドブックである大橋洋一=編『現代批評理論のすべて』(新書館,2006年)の用語解説では,「パフォーマティヴ」はもはや言語行為論とまったく関連づけられることなく,「パフォーマンス」と並べられている  (p.254) :


予備知識なくこれだけを読めば,「パフォーマティヴ」という用語はなんか演技や舞台・舞踏の「パフォーマンス」と似たような意味なんだろうと思うだろう.(もしかすると,担当した大貫氏もそう思っているのかもしれない.)

ところで,上記の用語解説では「実体的な身体は存在しない」とか「身体は物質化される」とか書かれているけれど,ぼくにはどういうことなのかまったくわからない.

スタンフォード哲学事典の「言語行為」を訳読しよう #09

グ(以下略).前回はこちら

2018年4月19日木曜日

スタンフォード哲学事典の「言語行為」を訳読しよう #08

グリーン「言語行為」を(以下略)。前回はこちら

総称文:例外を許容するどころでない例

裸複数形の主語をもつ総称文は,「すべてのXは…」の全称命題の文とちがって,例外を許容する(例文と容認度の判定ともにアラン・クルーズ『言語における意味』§19.1.1.3 を参照):

2018年4月18日水曜日

スタンフォード哲学事典の「言語行為」を訳読しよう #07

つづき.前回はこちら

オースティンの5分類は原文では箇条書きになっていないけれど,ここでは見やすくするために箇条書きにしてある.