2016年10月30日日曜日

ミラー先生の『消費』のサンプル訳をつくってみよう (6)

つづき:
「間違った保守モデル」(消費主義は自然なものと考える)と,「間違った急進主義モデル」(消費主義は文化的抑圧と考える),この両方への代替案として,本書ではもうちょっと込み入っているけれどきっともっと正確なはずの案を提案する.これを,「分別のあるモデル」(Sensible Model) と呼ぶ.というのも,人間と社会についてこれまで科学で発見されていることを踏まえてかなり思慮分別のあるモデルになってると思うからだ.このモデルでは,こう考える: 
無意識のうちに特定ののぞましい個人的資質を見せびらかそうと試みる人間の直観
+ 特定の種類の資格証明や職業や持ち物やサービスをとおしてそうした心的資質をみせびらかす現行の社会規範
+ 現行の技術でできることと制約
+ 特定の社会制度とイデオロギー
+ 歴史的な偶然と文化的な慣行
= 21世紀序盤の消費資本主義 
(これでもものすごく単純化しすぎているけれど) さっきの2つより複雑なこのモデルは,たんに消費主義を「脱自然化」するだけではない.社会規範や制度やイデオロギーや文化や技術を変えることで社会のどのへんをどう変えられるかをつきとめてもくれる.本書の終盤 1/3 では,この「分別あるモデル」にもとづいて,消費資本主義を設計しなおす方法をいくつか提案する. 
設計しなおすといっても,クロマニヨン人の生活条件を復活させようという話ではない.そんなことは,現代人にとって可能でもないしのぞましくもない.いま地球上には 67億人が生きている.みんなで狩猟採集生活にもどることなんてできない.単純でおだやかな小集団の生活という理想化された楽園にもどるという考えを提唱した人たちは多岐にわたる:仏陀,老子,エピクロス,ソロー,エンゲルス,ガンジー,マーガレット・ミード,ユナボマーなどなど.こういう理想家が支持者を集めることも多い.そうした支持者たちは教団をつくったり,政治運動を立ち上げたり,文化まるごとをつくったりもする:道教,シェーカー派,ラッダイト運動,マルクス主義者,アナーキスト,ヒッピー,エモキッズなどなど.主流の「ブルジョア・ボヘミアン」だって,「持続可能ななんとか」や「断捨離」や「みずから選ぶライフスタイル」や有機農業や企業の社会的責任を支持するし,居住地の区画規制がゆるす範囲でなら,ゲートで隔離されたじぶんたちのコミュニティに環境に優しくて共同体っぽさのある素朴で原始的なくらしの要素をいくらかもちこんだりもする. 
しかし,こうした人々やグループは,それぞれに原始的生活の長所と現代生活の短所を誇張してしまっている.クロマニヨン人の生活スタイルが人間の体や心,家族や部族にとってもっと自然な環境だったという彼らの直観は正しい.だが,同時に,ロマンティックな理想化をはぎとってみると,クロマニヨン人の生活は無知で偏狭で暴力的で,想像d系内ほど退屈だったという点を忘れてしまっている.文明がもたらした重要な発明ぬきの生活なんて,ぼくはごめんだ.貿易,通貨,識字,医薬品,本,自転車,映画,ダクトテープ,貨物コンテナ,コンピュータ――こうしたもののない生活をおくりたいなんて思わない.現代に不満だと言う多くの人たちとちがって,文明の発明の「オールタイムベスト」を3つ選ぶなら,ぼくはお金と市場とメディアを挙げる.どれをとっても,平和な人間どうしの協力がもたらす社会的・物質的な便益を猛烈に増大させた.ただし,これら3つがそろったからといって,必ずしも現行の消費資本主義ができあがるとはかぎらない. 
さいわい,ぼくらはこんな二択を強いられてはいない―― (1) よくわからないどこかのユートピアでは機能するかもしれない環境にやさしい共同体の素朴原始生活主義か,さもなくば (2) これまでのところ一部の人間社会に〔ガン細胞のように〕転移している消費資本主義か,このどちらか一方をえらばなきゃいけないってわけではない.「分別のあるモデル」では,他にたくさん選択肢があると提案する.そうした選択肢のなかには,先史時代の生活と現代生活の裁量の発明を組み合わせるものだってあるとぼくは考えてる.

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